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きょう聖(ねこミミ)

きょう聖(ねこミミ)

人間のための宗教

池田名誉会長の言葉から――心の財
 人々を結びつけるべき宗教が、利用され、かえって分断を煽っている。これほどの不幸はない。
 どこまでも「人間のための宗教」が根本とならねばならばい。「宗教のための人間」では絶対にない。「21世紀の宗教」の、これは根本原則です。
『聖教新聞』10月16日付7面)

『法華経の智慧』第5巻
 「凡夫でしかない」――そういう言い方は、とんでもない間違いです。
 そういう錯覚の黒雲を、大いなる涼風で吹き払ったのが法華経です。「凡夫でしかない」どころか「凡夫こそ仏なのだ」と。「人間こそが最高に尊貴なのだ」と。
 この「法華経の心」を究極まで表現されたのが日蓮大聖人の次の御言葉です。
 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備え給うと思ひしに、さにては候はず返って仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(御書1358ページ)
 「本仏と云うは凡夫なり迹仏というは仏なり」(同1359ページ)
 まさに「それまでの仏法がひっくり返ってしまった」御言葉です。凡夫が「本仏」、仏はその“影”である「迹仏」にすぎないと言われるのだから。“仏があって凡夫がある”と思っていたら、そうではなく、“凡夫があって仏がある”のだと。
 仏法だけでなく、全宗教史上、驚天動地の宣言です。
 どんな宗教でも、神仏などの「絶対なる存在」が上、人間はその下と考えるのが通例です。それを否定して、絶対者と思われている神仏は、実は凡夫=人間の「影」であり、「用(働き)」であり、「人間のための手段」にすぎない――こんな宣言は他にありません。
 まさに「人間のための宗教」の大宣言なのです。
 歴史上、「人間のため」のはずの宗教が、いつのまにか「権威のため」の宗教に変貌してきた。その思想的な根っこは「神仏が上、人間が下」としたところにある。そう言えるのではないだろうか。
『法華経の智慧』第5巻 ワイド文庫150ページ)


 ある人が言っていた。
 「本来、患者のために医者がいる。患者に尽くしてこそ医者である。なのに医者は自分のほうが偉いように思って、威張っている。困っている人のために弁護士がいる。なのに弁護士は自分が偉いように思って、威張っている。
 国民のために政治家がいる。公僕(民衆に仕える人)である。なのに政治家は国民を利用し、国民より自分が偉いと思って、威張っている。ジャーナリストは、民衆の人権を守るためにいるはずである。なのに、マスコミが先頭に立って人権侵害をしている。信徒のために聖職者がいる。なのに聖職者は自分のほうが偉いと思って、威張っている。」

 転倒です。これを、「ひっくり返す」のが、人間主義の「革命」です。
 釈尊は、それまでの「神々のために人間」「人間のための神々」に、ひっくり返した。同時に、人々の信仰心を利用して威張っていた「聖職者(バラモン)階級」を否定し、カーストを否定し、「人間はすべて平等」と宣言し、実行した。
 しかし、その仏法も、いつのまにか釈尊の精神を忘れてしまって、人間主義でなくなっていった。そこへ日蓮大聖人が出現されて、「仏のために人間がいるのではない。人間のために仏がいるのだ」と宣言されたのです。
 宗教は社会の根本だから、宗教革命こそ、社会の一切の転倒を正していく「根本の革命」なのです。
 ともあれ、誰にせよ、傲慢になった分だけ、自分が「マイナス人間」になっていることに気がつかなければならない。“自分は皆より偉いんだ”と思っている分だけ、人間としてはマイナスであり、低いところに堕ちているのです。
『法華経の智慧』第5巻 ワイド文庫193ページ)




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